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東京都美術館
東京都美術館
〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36


Botticelli e il suo tempo
ボッティチェリ展
―聖母子像の中でも最高傑作のひとつ 《聖母子(書物の聖母)が初来日―
 15世紀フィレンツェで活躍したサンドロ・ボッティチェリ (1444/45-1510) は、ルネサンスを代表する画家として知られています。 ボッティチェリの現存する絵画は約100点と言われ、数が限られていることと、板に描かれ非常に繊細なことなどから、これまでまとまった数の作品の来日はかないませんでした。
 日伊国交樹立150周年を記念して開催する本展覧会は、日本で初めての本格的なボッティチェリ展となります。 イタリア政府の協力のもとにフィレンツェを中心に世界各地から20点を超えるボッティチェリの作品を集め、その画業を辿るとともに、ボッティチェリの師フィリッポ・リッピと、弟子でありライバルでもあったフィリッピーノ・リッピらの作品もあわせてご覧いただきます。 洗練された線描と美しい女性表現を特徴とする珠玉の作品をとおして、ボッティチェリの優美な絵画世界に触れていただければ幸いです。 主催者

展覧会会期: 2016 1/16(土)―4/3(日) 展覧会は終了しました。(入場者数 30万 4686人)
開室時間: 午前9時30分―午後5時30分
(金曜日は午後8時まで) *入室は閉室の30分前まで。

休室日: 月曜日、3月22日(火)
(ただし、3月21日[月・休]、28日[月]は開室)

会場: 東京都美術館 企画展示室 (東京・上野公園)
主催:東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、朝日新聞社、TBS

1_15 '2016 「ボッティチェリ展」 プレス内覧会 & 開催式の会場風景です。
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「ボッティチェリ展」開会式
「ボッティチェリ展 開会式  1_15 '2016

メディチ家のロレンツォ・イル・マニーフィコの時代、サンドロ・ボッティチェリ、その師フィリッポ・リッピ、弟子のフィリッピーノ・リッピを中心にイタリア・ルネサンス美術の全盛期を回顧する

「展示構成」   ―PRESS RELEASE、「ボッティチェリ展」の図録 より抜粋して掲載しています―
 本展は日伊国交150周年を記念する企画として、イタリア政府が全面的にサポート。 フィレンツェを中心に世界各地から、ボッティチェリの貴重なテンペラ、フレスコ画をはじめ、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館の 《聖母子(書物の聖母)》 、ウフィツィ美術家の 《ラーマ家の東方三博士の礼拝》 や 《アペレスの誹謗》 を中心に約20点以上を展示します。また、 師匠であるフィリッポ・リッピの情緒あふれる作品とその息子であり、ボッティチェリの弟子でもあったフィリッピーノ・リッピの作品も合わせた約80点を通して、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロに並ぶルネサンスの大画家の画業を振り返ります。 ボッティチェリとルネサンスの絵の理解を深めるまたとない機会となるでしょう。
「展示構成」
第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ
第2章 フィリッポ・リッピ、ボッティチェリの師
第3章 サンドロ・ボッティチェリ、人そして芸術家
第4章 フィリッピーノ・リッピ、ボッティチェリの弟子からライバルへ

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ピエトロ・トッリジャーノ《ロレンツォ・イル・マニーフィコの胸像》
第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ
 サンドロ・ボッティチェリ (1444/45-1510) は、メディチ家のロレンツォ・イル・マニーフィコ (豪華王) (・1 《ロレンツォ・イル・マニーフィコの胸像》) というカリスマ的存在に代表される時代の完全なる代弁者でもあった。 ロレンツォは、偉大な収集家にして、フィレンツェ内外の芸術制度を組織する有能な主宰者でもあった。 彼は、イタリア半島の他の諸侯たちにフィレンツェの芸術家を躊躇なく 「貸与」 した。 ダ・マイアーノ一族をナポリに、ヴァチカン宮のシスティーナ礼拝堂装飾のために (サンドロ・ボッティチェリを含め) もっとも優れたフレスコ画家たちをローマに、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに派遣した。 レオナルドはその地に1482年から1500年まで滞在している。 ロレンツォは自らのサン・マルコの庭で、まさしく古代美術の研究と複製によって前途洋々たる若い芸術家たちに学ばせ、また若きミケランジェロ・ブオナローティも、その庭で彫刻の研鑚を積んだ。 ボッティチェリの偉大な神話的寓意画――《春(プリマヴェーラ)》 《ヴィーナスの誕生》 《パラスとケンタウロス》――は、アテネからローマにいたる古代文化の黄金時代の回帰という旗印のもと、ロレンツォや、彼に庇護された身近な人文主義者たちの洗練された感性に呼応するものである。
・1 ピエトロ・トッリジャーノ(帰属) [フィレンツェ、1472年-セビーリャ、1528年]
《ロレンツォ・イル・マニーフィコの胸像》 1515-20年
多彩色テラコッタ 82 x 80 x 42cm フィレンツェ、サルヴァドーリ・コレクション
 富裕な銀行家にして1469年から1492年にかけてフィレンツェを統治したメディチ家の当主ロレンツォをかたどった胸像は、ミケランジェロの好敵手で、チューダー朝イングランドにイタリア・ルネサンス美術をもたらしたことで名高い彫刻家ピエトロ・トッリジャーノの手に帰属されている。 本作品は、ジョルジョ・ヴァザーリが 「アンドレア・ヴェロッキオ伝」 で伝えている有名な事件と関わる奉納像に基づくと考えられている。 1478年4月26日、パッツィ家の陰謀により、フィレンツェ大聖堂でのミサ中に弟ジュリアーノが暗殺され、兄のロレンツォは負傷しながらも一命を取り留めた。 暗殺から逃れた直後の、陰謀者のナイフによって引き裂かれ、血に塗られ衣服を身につけた姿で献納された像は、奇跡を強調するとともに、陰謀の痕跡を留めたいわば聖遺物ともいえる。

フィリッポ・リッピ《受胎告知のマリア、大修道院長聖アントニウス(左)、大天使ガブリエル、洗礼者聖ヨハネ(右)》
第2章 フィリッポ・リッピ、ボッティチェリの師
 フィリッポ・リッピ (1406頃-1469) は、1421年、15歳を過ぎたばかりでフィレンツェのカルメル会サンタ・マリア・デル・カルミネ修道院の修道士となる。 1430年には同修道院の出納簿に初めて画家として言及される。 信仰心に乏しい修道士にして画家で、制作をめぐって度々訴訟沙汰になって聖堂聖職禄の停止や司祭解任の処分を受けた。 挙句に、1456年に再び司祭職に任じられたプラートのアウグスティヌス会サンタ・マルゲリータ女子修道院で若くて美しい修道女ルクレツィア・ブーティを自宅に連れ去る事件を起こす。 画家としての才能を高く評価したコジモ・デ・メディチをはじめとする同家の人々の執り成しのおかげで、聖職禄の剥奪だけで済み、ルクレツィアと暮らすことは許された。 二人のあいだに生まれたのが、フィリッピーノ・リッピである。 リッピの工房が最も活発だったのは、1452年に着手されたプラート大聖堂主要礼拝堂の壁画制作に関わった時期で、工房では、フラ・ディアマンテやボッティチェリたちが雇われた。 ボッティチェリはリッピから、優美さや正確な素描、甘美な色彩のグランデーションや薄塗を学んだ。

・28/29 フィリッポ・リッピ (本名:フィリッポ・ディ・トンマーゾ・リッピ) [フィレンツェ、1406年頃-スポレート、1469年]
《受胎告知のマリア、大修道院長聖アントニウス(左)、大天使ガブリエル、洗礼者聖ヨハネ(右)》
 1450-55年頃
テンペラ/板 各画面57x23.5cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館

 本作品は、上下2画面に分かれた縦長のパネル2枚から構成されている。 左パネル上段の聖母マリアと右パネル上段の大天使ガブリエルは、一組で受胎告知の場面を表している。 左パネル下段に描かれたのは、聖アントニウスである。 3世紀から4世紀のエジプトで活躍したとされる聖人で、修道院制度の創設者としても知られている。 一方で、右パネル下段に描かれたのは洗礼者聖ヨハネで、毛皮の衣を身にまとい、左手に十字架型の長い杖を手にしている。
 制作年代は、近年では1450年代前半に位置づけられることが多い、フィレンツェ近郊のプラートにおいて、リッピが代表作であるサント・ステーファノ聖堂の壁画装飾に取り組み始めた頃である。 1919年にアカデミア美術館 (フィレンツェ) からウフィツィ美術館に移管された。


サンドロ・ボッティチェリ《バラ園の聖母》
第3章 サンドロ・ボッティチェリ、人そして芸術家
 ボッティチェリは、マリアーノ・デイ・ヴァンニ・フィリペーピとその妻ズメラルダのあいだの4番目にして最後の息子として、1445年頃、フィレンツェに生まれた。 素描や絵画に関する素質を知った父親は、おそらく1459-60年に、彼をフィリッポ・リッピの工房に入門させた。 ロレンツォ周辺の人道主義者たちから提供される、古典的あるいは神話的主題を絵画に翻訳するのに必要な教養にも恵まれていた。 他の誰よりもその時代の証人たりえた画家であり、完璧な仕上げと古代美術の原型に配慮により、15世紀後半の洗練されたフィレンツェ社会の趣味に合致するものだった。 1492年のロレンツォ・イル・マニーフィコの死とともに、ボッティチェリの輝かしき時代は終焉を告げる。 彼の運命は常にゆるぎなくメディチ家と結びついていたが、大変影響力のある、ドメニコ会説教師で1498年に処刑されることになるジローラモ・サヴォナローラの崇拝者であり、それがために、彼の最晩年の芸術活動は、劇的かつ幻想的な宗教主題の絵画によって特徴づけられ、工房の弟子たちに委ねられた部分の作品が多い。 1510年に65歳で死亡、オニサンティ聖堂に葬られる。 遺族は、あまりに多額の負債があったための相続放棄であった。

・42 サンドロ・ボッティチェリ(本名:アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ) [フィレンツェ、14444/45年-1510年]
《聖母子(書物の聖母) 1482-83年頃 テンペラ/板 58x39.6cm ミラノ、ポルディ・ペッツォーリ美術館

 穏やかな空と風景に開かれた窓のある室内で、聖母が幼子イエスを膝に抱いている。 キリストは左手に金鍍金された3本の小さな釘を持ち、やはり金度金された茨の冠を腕に通し、将来の受難を暗示している。 受難の象徴は、明快かつ幾何学的に配置された背後の静物モティーフにも見ることができる。 マヨリカ陶器の鉢には、キリストの血を暗示するサクランボ、聖母の甘美さを示すプラム、キリストの救済と再生を象徴するイチジクなどが盛られている。
 本作品が示す光輪や聖母の衣服、聖母子の髪や受難の象徴などに施された極度に緻密な仕上げ、金箔やラピスラズリなど高価な材質の多用から、当時、人気をえて量産された個人の礼拝用絵画に属するとはいえ、極めて重要な注文による制作だったことが推測される。


フィリッピーノ・リッピ《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち》

第4章 フィリッピーノ・リッピ、ボッティチェリの弟子からライバルへ
 19世紀後半から今日に至るまで美術愛好家たちはポッティチェリを称賛し続けているが、存命中の評価は彼の元弟子であったフィリッピーノ・リッピ (1457年頃-1504) によって脅かされることもあった。 フィリッピーノはボッティチェリ自身の師でもあったフィリッポ・リッピの子で、若い頃にはボッティチェリと共同で制作を行った。 そのこともあって、コルシーニ家の円形画 (・69 《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち》) のような初期作品のいくつかは、雰囲気や見かけといった点において極めてボッティチェリに似た特徴を持っている。 しかし、フィリッピーノはすぐに彼独自の様式を発展させ、1488年にローマへと旅立つ頃からフィレンツェで1504年に没するまでのあいだ、イタリアにおいてもっとも高く評価され人気を博す画家となった。

・69 フィリッピーノ・リッピ [プラート、1457年頃-フィレンツェ、1504年]
《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち》 (コルシーニ家の円形画) 1481-82年頃
テンペラ/板 直径173cm フィレンツェ、フィレンツェ貯蓄銀行コレクション

 本作品は、聖母と5人の天使、および洗礼者聖ヨハネを描いた円形画である。 同時代の現存する円形画のなかでは最大規模のものである。 円形画は、15世紀半ばから16世紀前半のフィレンツェで、流行した形式で、フィリッピーノの父であるフィリッポ・リッピや、師であったボッティチェリも重要な作品を残している。 大部分の円形画は個人の邸宅の内部装飾の一環として制作されたもので、聖母子を中心としたキリスト教関係の親しみやすい主題が選ばれた。 本作品は画業の初期におけるフィリッピーノの多様な関心を示すもので、水辺の街並みと険しい山並みを対比させて描く風景表現や、聖母の背後の壁龕の、石彫や金工を模した装飾は、おそらく同時代のフィレンツェで広く活躍していたヴェロッキオの諸作品や、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画作品に想を得たものであろう。 跪く天使たちの持つ譜面には三声の歌唱曲の一部が正確に記されている。 フィリッピーノは多数の楽器を所有し、音楽に関する知識も有していたと考えられる。



「ボッティチェリ展」プレス説明会
「ボッティチェリ展」 ( プレス説明会 1_15 '2016 )
クリスティーナ・アチディーニ Cristina Acidini
美術史家/フィレンツェ歴史・美術・文化人類学遺産および美術館群監督局元長官
 ロレンツォ・イル・マニーフィコ、諸芸術の君主 ―(「図録」よりの抜粋文章です)―
 サンドロ・ボッティチェリの絵画は、あらゆる時代の芸術の頂点として称賛され世に認められており、なかでも1400年代後半のフィレンツェ・ルネサンスのもっとも気高き象徴である。 世界中がそうと認めるのには、多くの理由がある。 ボッティチェリの絵画は、主題の聖俗を問わず珍しい画題、複雑な構図、現在でも美しいとされる美の規範 (カノン) に対応する均整のとれた形態の人物、そして卓越した英知をもって賦された眩い色彩を通じて描かれている。 しかし、ボッティチェリが、さらにメディチ家のロレンツォ、通称ロレンツォ・イル・マニーフィコ (豪華王) (・1 《ロレンツォ・イル・マニーフィコの胸像》) というカリスマ的存在に代表される時代の完全なる代弁者でなかったなら、これは十分なものとはならなかったであろう。 ロレンツォの時代、フィレンツェは、そのいかなる表現においても真正な 「ルネサンス揺籃の地」 として、美においても人文主義的文化においても前例なき水準に通達したのだ。 商人にして銀行家であったメディチ家の経済・政治面での台頭は14世紀から萌していたといえ、15世紀を通じて留まることがなかった。 家系の社会的地位は、アヴェラルド・イル・ヴェッキオ、通称ビッチとともにゆるぎないものとなっていたが、その息子ジョヴァンニは、名高いサン・ロレンツォ聖堂の擁護者として頭角を現した。…後継者となる 「祖国の父」 、通称 「老コジモ」 は、宗教、芸術、文化の振興をはかり、壮大な事業に惜しみなく巨額の富を注ぎ込んだ。…彼の後継者、通称 「痛風病みのピエロ」 は、公的な礼拝のためにサン・ミニアート聖堂とサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂に貴重な祈禱用小札拝堂を提供し、自身の書斎を彩釉テラコッタで装飾させ、古物、手写本、貴重な品々の収集を充実させた。 こうした血筋を引くロレンツォ (1449-1492) は、弟ジュリアーノ (1453-1478) が生存中は、その弟と一緒に、文芸保護、そして特に収集興味の道を継承した。…
 …主題は興味を抱かせ、構図は見事で、絵画的着想の魅力的な作品 《春(プリマヴェーラ)》 は、1498年にはピエルフランチェスコの相続人たちの邸宅にあり、豪華な家具の一部をなしていた。 しかし、歴史家たちは絵画の注文をロレンツォ・イル・マニーフィコに結びつける仮説を立てることを断念してはいない。 この仮説には、絵画のもつ政治的性質との関係からも、私は賛同している。 この絵は、私の見解では、ギリシア・ローマの神話から引き出した人物たちを通して、近い時期に幸福な結末へと至った出来事に照らしてメディチ家とフィレンツェを寓意的に称揚するものと解釈される。 実際、《春》 には、教皇から聖務停止令が出されることになるバッツィ家の陰謀に続く2年間の戦争 (1478-80年) を経て、ロレンツォ・デ・メディチが再び確立した平和において、「フローラ」 として一新された 「フィオレンツァ」 (フィレンツェの旧名) の繁栄を示す像に表現された賛辞をみることができよう。 ロレンツォの注文は、《ヴィーナスの誕生》 にも関わっている。…

お問合せTel:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
展覧会公式サイト:http://botticelli.jp/
主催:
東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、朝日新聞社、TBS
後援:外務省、イタリア文化財・文化活動・観光省、イタリア大使館、イタリア文化会館
協賛:JR東日本、竹中工務店、凸版印刷、トヨタ自動車
協力:アリタリア-イタリア航空、日本航空、日本貨物航空

参考資料:「ボッティチェリ展」 図録、PRESS RELEASE 他。
※写真撮影の画像など掲載は、主催者の許可を受けて行っております。
※画像の無断転載禁止
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