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山種美術館
〒150-0012 東京都渋谷区広尾3-12-36


山種美術館 広尾開館 10 周年記念特別展
生誕 130 年記念 奥村土牛

 1966(昭和 41) 年、東京・日本橋兜町に開館した山種美術館は、2009(平成 21)年 10 月、渋谷区広尾に移転して新美術館をオープンしました。 2019 年、広尾開館 10 周年を記念する特別展第一弾として、同館と縁が深く、同年に生誕 130 年を迎える日本画家・奥村土牛 (1889-1990) に焦点をあてた展覧会を開催中です。 同館の創立者・山﨑種二 (1893-1983) は、「絵は人柄である」 という信念のもと、画家と直接関わり合うなかで作品を蒐集しました。 特に土牛とは親しく、無名だった研鑽時期の支援から約半世紀にわたり交流を続けた結果、現在、同館は 135 点に及ぶ屈指の土牛コレクションで知られています。

 土牛は、画家志望であった父親のもとで 10 代から絵画に親しみ、梶田半古 (1870-1917) の画塾で生涯の師と仰ぐ小林古径 (1883-1957) に出会います。 38 歳で院展初入選と遅咲きでありながら、展覧会に出品を重ねて 40 代から名声を高め、101 歳におよぶ生涯において、晩年まで制作に取り組みました。 土牛は、半古や古径から学んだ写生や画品を重視する姿勢を生涯貫き、「絵を通して伝わってくるのは作者の人間性」 という自らの言葉を体現するような作品を数多く生み出しました。

 本展では、瀬戸内海の鳴門の渦潮を描いた No.31 《鳴門》 や、古径を偲んで制作した No.26 《浄心》 、No. 44 《醍醐》 などの代表作をはじめ、活躍の場であった院展の出品作を中心に約 60 点を展示し、土牛の画業をたどります。
 土牛という雅号は、中国・唐代の詩の一節 「土牛石田を耕す」 に由来します。 その名を糧に、地道に画業へ専心した土牛。 80 歳を過ぎてなお 「死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい」 と語り、精進を重ね、100 歳を超えても絵筆をとり続けました。 山種美術館が広尾開館 10 周年を迎え、当館と縁の深い奥村土牛が生誕 130 年となるこの機会に、清らかで温かみ溢れる土牛芸術をご堪能ください。  (※作品はいずれも山種美術館蔵)


会期: 2019 2/2(土)~3/31(日) 展覧会は終了しました。
開館時間:午前10時から午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日
会場:山種美術館
〒150-0012 東京都渋谷区広尾3-12-36
URL http://www.yamatane-museum.jp/


※'2019 2_4 山種美術館 広尾開館 10 周年記念特別展 「生誕 130 年記念 奥村土牛」 プレス内覧会―プレスリリース・展覧会資料からの抜粋文章です。
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。
「生誕 130 年記念 奥村土牛」山種美術館
山種美術館 広尾開館 10 周年記念特別展
「生誕 130 年記念 奥村土牛
プレス内覧会 '2019 2_4

土牛 (とぎゅう) という雅号は、中国・唐代の詩の一節 “土牛 (どぎゅう) 石田を耕す” に由来します

   

【展覧会の見どころ、展覧会の構成】 ―「生誕 130 年記念 奥村土牛」 プレスリリース・展覧会資料などからの抜粋文章です―

本展の見どころポイント
1. 日本屈指の土牛コレクションから、名品を約 60 点厳選し、大公開!
土牛作品 135 点所蔵し、質・量ともに最高レベルの土牛コレクションとして知られる山種美術館。
本展は、No.44 《醍醐》 No.31 《鳴門》 をはじめ土牛の優品を一堂にご覧いただける、当館ならではの特別な機会です。
2. 当館所蔵の再興院展への出品作 全 35 点を一挙公開!
生涯にわたり再興院展で活躍した土牛。 当館が所蔵する院展関連作品全 35 点 [秋の院展 (32 点)、春の院展 (2 点)、同人展 (1 点)] を一挙公開いたします。
3. 生誕 130 年の記念の年に、土牛 101 年の生涯を振り返ります!
土牛は長寿の画家として知られ、100 歳を超えても絵筆をとり続けました。 本展では、初期から晩年にいたる数々の作品や、白寿記念の書などを通じ、尽きることのなかった土牛の制作意欲をご覧いただきます。

生誕 130 年記念 奥村土牛」 の展覧会構成 ―展示作品 計 63 点、資料 2 点― 全て山種美術館蔵
第1章 土牛芸術の礎― 20 点
第2章 土牛のまなざし― 19 点
第3章 百寿を超えて― 24 点

※'2019 2_4 山種美術館 広尾開館 10 周年記念特別展 「生誕 130 年記念 奥村土牛」 プレス内覧会―プレスリリース・展覧会資料などからの抜粋文章です。
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。
奥村土牛《聖牛》
第1章 土牛芸術の礎
 奥村土牛 (1889-1990) は、画家志望であった父親のもと、幼少期から絵画に親しみ、16 歳で日本画家・梶田半古 (1870-1917) の画塾に入門します。 そこで生涯の師と仰ぐ小林古径 (1883-1957) に出会いました。 画業の初期に二人の師から、写生への厳格な姿勢、色彩に対する鋭敏な感覚、作品の品格の重要性など、土牛芸術の核となる要素を学びました。
 38 歳で再興日本美術院 (院展) に初入選した土牛は、師から学んだことを土台に、伝統的な日本絵画から、明治末期より大正初期に日本に紹介されたばかりの西洋絵画にいたるまで、さまざまな画風を吸収していきます。 そして、草花や動物、風景など身近な題材を数多く取り上げ、「絵を通して伝わってくるのは作者の人間性」 という自身の言葉に表されるような、清らかで温かさに満ちた作品を生み出しました。
 本章では、大正期から昭和 20 年代にいたる作品を展示しています。 院展の同人に推挙される契機となった No.3 《枇杷と少女》 や、師・古径の洗練された輪郭線を彷彿とさせる No.20 《聖牛》 など、画家としての礎を築いた時期の作品をご紹介いたします。
・No.20 奥村土牛 《聖牛》 1953(昭和 28)年 64 歳作 再興第 38 回院展出品 絹本・彩色 山種美術館蔵
 丑年生まれで雅号に牛の字を持つ土牛は、初期から晩年まで牛を数多く描いた。 本作品では、肥痩の少ない洗練された描線と薄く塗り重ねられた胡粉により、たたずむ白牛の姿が表されている。 善光寺 (長野) にインドから 2 頭の牛が贈られたと聞き、1 週間かけて写生した。 出産後の母牛に 「落ち着きと気品」 を感じたという土牛の言葉どおり、頭を上げ真正面を見据える姿は崇高さも漂わせている。

奥村土牛《鳴門》

第2章 土牛のまなざし
  写生を好んだ土牛は、形を表面的に写すのではなく 「物質感、つまり気持ちを捉える事」 が大切だと述べ、描く対象の本質や生命感を表現することを重要視しました。 色彩についても、外観の色だけではなく、「精神を意味したものでなければならない」 と考えていました。 No.31 《鳴門》 に見られるような、薄く溶いた岩絵具を何層にも重ねつつも透明感と深みのある色調は、土牛作品の大きな魅力の一つでもあります。
 対象の再現にとどまらず、形や色を通し本質を捉えていく表現について、土牛は若い頃に学んだ二人の師からの教えや、日本で紹介され始めたセザンヌなどポスト印象派の影響があったと述懐しています。
 本章では、「何か解放されたような気持になって、自由にのびのびと制作できるような気分」 になったと、旺盛に制作へ取り組み、数多くの代表作を生み出した 60 歳代から 70 歳代にかけての作品を紹介しています。 まなざしの先にある対象と向き合い、その本質を真摯に描き出そうとした土牛の作品をご堪能ください。

・No.31 奥村土牛 《鳴門》 1959(昭和 34)年 70 歳作 再興第 44 回院展出品 紙本・彩色 山種美術館蔵
 【土牛のことば 宿を取ると早速に、汽船で渦潮を見に出かけた。 雄大でまた神秘的である渦潮を見ていると、描きたいという意欲が、おさえ難くわき上がってきた。
 しかし写生帳を取り出しても、そのころの汽船は渦のそばまで行くと揺れに揺れて、写生はおろか、身体をしっかり支えているのも困難なほどであった。 このため後ろから家内に帯をつかんでもらい、まるで人が見たら符牒かと思うかもしれぬような写生を何十枚も描いた。 そして同時に、その時の新鮮な印象を頭の中に刻みつけるようにした。 (「私の履歴書 奥村土牛 23 」 『日本経済新聞』 1973 年 10 月 4 日)


奥村土牛《醍醐》

第3章 百寿を超えて
  私の仕事も、やっと少しわかりかけてきたかと思ったら、八十路をこしてしまった。 (中略)私はこれから死ぬまで、初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい。 むずかしいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。 芸術に完成はあり得ない。 要はどこまで大きく未完成で終わるかである。(「私の履歴書 奥村土牛 26」『日本経済新聞』 1973 年 10 月 7 日)
  84 歳で、このように述べた土牛。 尽きることのない制作意欲を抱き続け、100 歳を超えても作品に取り組みました。 土牛の雅号は、「土牛石田を耕す」 という中国・唐時代の詩に基づき、父親から名付けられたものです。 その名の意味を 「牛が石ころの多い荒地を根気よく耕し、やがては美田に変えるようにたゆまず精進」 することと受け止めた土牛は、生涯をかけて画業に専心しました。
 本章では、80 歳で旅した能登を題材に描いた No.41 《朝市の女》 から、白寿の記念に 「今までやったことのない新しい試み」 として取り組んだ No.62 《山なみ》 など、晩年の作品を中心に展示しています。

・No.44 奥村土牛 《醍醐》 1972(昭和 47)年 83 歳作 再興第 57 回院展出品 紙本・彩色 山種美術館蔵
 【土牛のことば 醍醐は昭和 38 年、小林古径先生の七回忌の法要の帰りに京都へ寄り、三宝院前の土塀のしだれ桜に極美を感じ写生をし、何時か制作したいと考えて居りました。
ー昨年の昭和 47 年、今年こそと思って、桜の時期の来るのを待って醍醐へ行きました。 10 年前と少しも変わりなく、2 度最初の印象が浮かび制作しました。 この年は桜を見たく、常照皇寺のしだれ桜をはじめ奈良方面を廻り、終に待望の吉野まで参りました。 ―(『第 1 回現代日本画の 10 人』 山種美術館 1974 年)


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奥村土牛《浄心》

日本画家・奥村土牛【1889-1900(明治 22-平成 2) 年】 ― 《浄心》 制作中の土牛 ( 68 歳) 1957 (昭和 32)年―

 東京に生まれる。 本名義三。 梶田半古に入門、兄弟子・小林古径に出会い指導を受ける。 1927 (昭和 2)年、院展に初入選、1932 年には同人となった。 1935 年、帝国美術学校 (現・武蔵野美術大学) 教授。 1947 年、帝国芸術院会員。 1962 年、文化勲章を受章。 1978 年、日本美術院理事長。 透明感のある色調による、おおらかで温かみのある作風を確立した。

土牛と山﨑種二
 山種美術館創立者の山﨑種二は、1935 (昭和 10) 年頃から約半世紀にわたり、土牛と親しく交流し、支援し続けたことが知られています。
 はじめ、種二は土牛を自邸に招き、「私は将来性のあると確信する人の絵しか買わない」 と伝えました。 土牛はその言葉に大いに勇気づけれたといいます。 また、出会って数年後のこと、土牛の家を訪れた種二は、電話がないと知ってただちに設置を手配し、土牛を驚かせました。
 土牛は種二について 「万事につけていろいろと力を貸して下された」 「思い出はつきない」 と語っており、親交の深さがうかがえます。 1983 (昭和 58) 年に種二が他界したとき、土牛は 94 歳を迎えていましたが、[お棺に入れる前にどうしても会いたい] と熱海の種二の別荘までかけつけ、枕元でとめどなく涙を流したそうです。 こうした長年にわたる交流の結果、同館には多数の土牛作品が収蔵され、全部で 135 点を数えます。
 戦後の院展出品作は、同館に所蔵してもらいたいという土牛本人の希望により、その多くを購入しています。

お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
美術館公式サイト:http://www.yamatane-museum.jp/
主催:山種美術館、朝日新聞社

出典資料:「生誕130年記念 奥村土牛」 展、Press Release、チラシ、他。
ご意見ご感想は yashio@mui.biglobe.ne.jp

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